髙尾山薬王院
髙尾山薬王院
真言宗智山派の大本山。千二百六十余年、開山からの由緒ある古刹
髙尾山薬王院

八王子市西部に位置する髙尾山は江戸の昔から髙尾山薬王院を中心とした飯縄信仰、山岳信仰の対象であり、「祈りのお山」として多くの人で賑わってまいりました。
髙尾山薬王院は正式名称を髙尾山薬王院有喜寺といい、
成田山新勝寺、川崎大師平間寺と共に真言宗智山派三大本山の一つとして広く知られており、歴史的にも高僧行基菩薩による開山から1260余年を経た由緒ある古刹です。

髙尾山薬王院
飯縄権現堂

永和年間(1375~78年)に、京都の醍醐山から俊源大徳が入山し、不動明王を祈念して8,000枚の護摩供秘法を厳修し、それにより一山の守護神として飯縄権現を奉祀し中興したと伝えられています。以降、薬師信仰と共に飯縄信仰の霊山になり、醍醐派(当山派)の修験道場として、山岳仏教と修験根本道場が渾然一体となって隆盛を極めていきました。 上杉謙信や武田信玄、後北条などが戦国武将の守護神として飯縄大権現を崇敬し、厚く帰依したと伝えられています。また、髙尾山は戦略上重要な位置にあり、八王子城防衛の自然の要害となったところでもあり、天文年間(1532~55年)には、山上に浅間神社を勧請、以降富士信仰の山としても知られるようになります。

江戸時代に入っても徳川幕府から手厚い保護を受けました。江戸期には、常法談林所(常時、僧侶の教育・研究が行われる寺)となり、飯縄権現堂本堂の建立、拝殿・幣殿・殿の三殿一体となった彩色華麗な権現造りの飯縄権現堂
(御本社)が完成しました。

髙尾山薬王院
  • 本堂 内陣写真
  • 本堂 内陣写真1
  • 本堂 内陣写真2

明治期には神仏分離令が発布され、寺院は大きな変革と統制を受け、飯縄大権現を飯縄不動と改称したり、寺領の大部分を上地するなどの苦慮もありました。
その後、関東大震災(大正12年・1923年)や火災(昭和4年・1929年)などにより苦しい経験を経ましたが、戦後、飯縄大権現堂、奥之院不動堂、仁王門が相次いで東京都文化財に指定されました。
なお、髙尾山薬王院分院として浅草分霊院、長野県駒ヶ根分霊院、群馬県石倉分霊院に分霊院を開院し広く信徒を集めています。

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